釧路市立美術館

釧路市立美術館

優しい時間が流れる複合施設の中にある美術館

釧路市内の彫刻

釧路のランドマークとして知られる幣舞橋の四季の像をはじめ、釧路にはたくさんの彫刻が設置されています。街歩きの楽しみの一つとして、彫刻を巡る小さな旅をしてみませんか?

舟越保武、佐藤忠良、柳原義達、本郷新「道東の四季の像」1977年
<幣舞橋>

道東観光のシーズンを迎えると、橋の上に記念撮影をする観光客がにぎわいをみせる。橋が観光スポットの一つとしてここまで定着している例は、そう多くはないでしょう。

幣舞橋の存在は、釧路市民にとって街の歴史そのもの。空襲や地震で落橋せず、川を渡し続けてきたその存在は、市民の心の支えであり、街のシンボルとなってきました。

この幣舞橋が5代目へと架け替えられるとき「橋の機能性だけではなく、街のシンボルとしてふさわしいデザインに」との声が次々とあがり、その願いに比例して多くの浄財が寄せられ、橋脚上に4体の女性像「道東の四季の像」が設置されることとなりました。舟越保武、佐藤忠良、柳原義達、本郷新らの手によるこの優美な女性像は、すなわち、橋によせる市民の愛情が形を成したものといっていいでしょう。

今や釧路の顔となった橋と女性像は、河口に望む夕陽や霧など、釧路特色の景観に彩りを添えながら、街の顔として多くの人を惹きつけています。

中江紀洋「地殻交信機」1976年
<幣舞公園内>

釧路川を見下ろす丘に広がる幣舞公園。その公園の一角に中江紀洋作「地殻交信機」が立っています。かつてこの公園を舞台に開催されていた「くしろ千燈祭」の10回目を記念し昭和59年に設置されました。千のロウソクで祖霊を送るという祭りの願いは、銘板にしっかりと刻まれています。

「忘れておりませんか、私達のふるさと釧路の礎となられた多くの先人がいたことを…。そしていまここに私がいるということを…。」

中江が32歳の時に制作したこの像は、その想いをしっかりと象徴している。抽象的な像は、先人と私たちを繋ぐ交信機。過去の世界に生きた人々がどんな未来を夢見たのか、そして現代はその夢を適えたのか…墓石を掃除しながら過去に思いを馳せたという作家のイメージが、異形の像へと結実しました。

この像と向き合い、釧路川とメインストリートを見下ろすとき、開拓に尽力し大都市・釧路を拓いた祖先の悲喜こもごもが、街並みに重なって現れてきます。

中野五一「松浦武四郎蝦夷地 探検像」1955年
<幣舞公園内>

北海道の名付け親として知られる松浦武四郎は、1858(安政5)年の第4回目の蝦夷地探検時に釧路から阿寒湖畔へ抜け、その様子を絵画や文で紹介しました。この時、アイヌの案内人8名が同行したといいます。
彼らの業績を後世に残そうと、阿寒観光協会が中心となって設立実行委員会が発足し、1955(昭和30)年にこの銅像が制作されました。腰を落としたアイヌの案内人と、記録を続ける松浦。深い森林に分け入り、地図を制作しようと奮闘する2人の協力関係が、距離感や仕草に見て取れます。
制作後は設置場所の選定と礎石制作に3年を費やし、1958(昭和33)年に幣舞町高台に設置されました。二人は遠くに阿寒連峰を望み、街の広がりを見守っています。

澄川喜一「光る風」1988年
<釧路駅前>

鳳凰をかたどった風見鶏を頂に持つこの塔は、天然記念物タンチョウを守り育ててきた道東地域を象徴するモニュメントとして、1988年釧路駅前に設置されました。作者の澄川喜一は東京藝術大学教授として各地に立体造形を設置。近年では東京スカイツリーのデザイン監修を手掛けて注目を集めました。

市章を象った御影石の土台から垂直に伸びたステンレスの胴。陽光のなかに銀色に輝くその姿は、駅からあふれメインストリートを目指す人々の導手として、景観に融け込んでいます。土台から10方向に伸びた白煉瓦のラインの先には、塔と同じくデザインされた照明と、御影石のベンチがモニュメントを取り囲むように設置され、交通の要衝に待ちあう人々の待合場所として、道東の広い空を望む憩いの空間を形成しています。

本郷新「釧路の朝(あした)」1966年
<釧路市観光国際交流センター前>

本郷新が手がけた「鳥とオンナ」シリーズの12番目の作品。本郷は「裸婦には汚れなき素朴、野性味、純情を、時を告げるニワトリには躍動を表現した。釧路の未来や前進を表象するものにしたい」と語っています。
釧路市で漁業を営んだ金井関次郎氏の寄付により1966(昭和41)年に制作され、当初は市役所中庭に設置されましたが、「古くからの名作を、もっと市民の目に付くところに」との声を受け、1993(平成5)年に釧路市観光国際交流センター建設にあわせて移設されました。

本間武男「湿原の詩」1993年
<釧路プリンスホテル前>

本間武男は余市町に生まれの版画家。1960年代からシルクスクリーンで作品を制作し、個展を中心に発表を続けました。数は多くはないが彫刻も制作しており、本作は中でも大きな作品の一つです。
花を携えた少女の落ち着いた仕草と、対照的に力強く羽を広げたハクチョウが、静と動のコントラストを際立たせています。
本作が設置されている釧路プリンスホテル内には、本間の絵画も展示されており、作家の多彩な創作活動を見ることができます。

松村秀太郎「嵯峨久翁像」1930年
<富士見坂脇>

戦後70年が過ぎて記憶も徐々に薄れ、空襲があったここ釧路においても、その痕跡を探すことは難しくなりました。しかし間接的にその歴史を感じることができるのが、本作・嵯峨久氏の像です。

嵯峨氏は釧路で初めて発動機船を使って漁を始めた漁業者。これによって沿岸漁業から近海へ、さらに遠洋へ釧路の漁業が発展するきっかけを作りました。

その功績をたたえようと、昭和5年に制作された顕彰碑が本作。手に双眼鏡を持ち遠洋を望む姿は、海に挑み続けた嵯峨氏の強い信念をも感じさせます。高さ2.4メートルの悠々たる立像は、盛大な除幕式とともに市民に迎えられたといいます。

しかし、戦火が濃くなるにつれ、像は鉄・銅の供出の一環として召し上げられ、台座だけが残されました。

戦後、しばらく像不在の状況が続きましたが、昭和35年に漁業者の間から再建の声が上がると、幸いにも元の像の制作者である松村秀太郎に再依頼することができ、翌年サイズ・デザインとも同じ像が制作、設置されました。

戦争という時代にもまれながらも再建された像は、釧路港を望む高台に設置され、街の繁栄と平和を見守っています。

本郷新「石川啄木像」1972年
<港文館前>

1972(昭和47)年、鉄道100年記念を機に、釧路市・幸町公園にSLが設置されたのと同時に、本郷新制作の「石川啄木像」が設置されました。 「さいはての 駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」 まさに釧路駅に啄木が下り立ったその時の情景が浮かび上がってくるようなこの句を題材に制作された啄木像。「世の底辺に足を踏まえ、天空を仰ぐ啄木」をイメージしたという像は、マントを羽織り、腕を組んで凝視する厳しい表情。本郷が12年前に制作し函館の大森海岸に設置した「思索にふける啄木坐像」とは対照的です。

本郷は函館の像の制作後、「肩をいからし、腕を組み憮然とした表情をしている立像をつくりたい」と周囲に熱く語っており、釧路の像は長年温めてきたその想いが結実した一作となりました。

1991(平成3)年5月、啄木が勤めた旧釧路新聞の社屋が「港文館」として復元されたのに合わせ、啄木像も旧釧路川沿いに移設されました。

舟越保武「海の顕彰碑」1986年
<マリントポスくしろ前庭>

釧路港の水産展示施設「マリントポスくしろ」の公園の片隅、木陰に隠れるようにして舟越保武作「海の顕彰碑」が設置されています。

この像の制作にあたって釧路を訪れた舟越に、現地の男が声をかけたといいます。

「先生よ、オレ達にも解るようなものを作ってくれよなぁ」

海の男の底意のない荒っぽい一言が、尊いものにさえ思えた、と後に舟越は語っています。

制作された像は3体1組。女性像を「渚」、男性像を「濤」、間に立つ子どもを「渉」。女性像は同市内幣舞橋にある「道東の四季の像・春」に似ていますが、より抑制された姿勢は優しげで、母なる慈愛を湛えているかのようです。男性の精悍な体つきには、家族を背負って立つ父の揺るぎない意志が感じらます。家族を題材にした群像は舟越作品の中でも珍しく、晩年の代表作といえるでしょう。

水産都市釧路の繁栄を願い、制作費の多くを市民の浄財によって賄われたこの群像は、まっすぐに海に向かって立ち、漁に向かう船を日々見送っています。

高橋剛「水の精」1986年
<釧路市港湾庁舎横公園内>

釧路市内から少し離れて海沿いを歩くと、サイロ群が見えてきます。その巨大な建造物の間を海岸へ抜けていくと、公園「釧路西港緑地」にたどり着きます。

この太平洋を望む港の中の公園には、1体の女性像が設置されています。高橋剛が制作した女神像「水の精」です。

薄い衣をまとった女性は、踵を浮かせて軽やかに伸び上がるように立っています。右手を高く掲げ、空を見上げている像は、空中から何かを取り出しているかのようにも見えます。

日展などで作品を発表した高橋剛は女性像を多く制作しましたが、「女神」を主題とした作品は極めて少ないです。「北欧にも似た釧路のイメージを女神の衣などに表現した」と語った作者は、しなやかな女性の仕草に、命の根源ともいえる「水」を希求するイメージを託しました。さらに、左手に持った大きな貝殻は、川と海を象徴するといいます。

太平洋での漁業や、釧路川・阿寒湖が育んできた湿原。本作は水がもたらす豊かな自然に支えられてきた釧路の街、そのものを象徴しているともいえるでしょう。水平線を望むに設置された女神像は、岸壁に集う人々を優しく迎えています。

米坂ヒデノリ「送り火」「防雪林」「母と子」
<南大通>

この建物を近藤康範氏が税理士事務所として使用を決めた折、街の景観への配慮として、違和感なく溶け込む像を設置することを決めたといいます。
その際、近藤氏自身が物事を考えるとき意識しているという「過去、現在、未来」を象徴する像を選定し、この3体が選ばれたそうです。
3体は米坂ヒデノリが30歳後半から40代前半にかけて制作した代表作。木彫を原型とした像には、鋭いノミ跡が刻み込まれ、体を包み込む布とあいまって、厳しい自然に立ち向かう人間の心象を色濃く表しています。

下田治「イマジナリー・オーロラ」1988年
<釧路公立大学キャンパス内>

釧路市北部に立地する釧路公立大学の門をくぐると、広く開けた前庭の中央に巨大な鉄のモニュメントが目に入ってきます。1988(昭和63)年、大学開学を記念し制作設置された下田治「イマジナリー・オーロラ」です。

1924(大正13)年満州に生まれた下田は、鋼板をつなぎ合わせた立体造形を手掛け、ニューヨークを拠点に活動を続けました。本作は下田を釧路へ招き、釧路製作所で制作を行ったものです。直径16メートルもの土台に13トンもの鋼板を組み合わせたモニュメントは、道内数ある野外彫刻の中でも特に巨大な作品の一つといえるでしょう。

「若い人が宇宙に挑むパワフルな力を表現した」と語った下田の言葉通り、鋼板は舞い上がる鳥の羽のように組み合わされ天に向かって伸び、縁石に腰かけて見上げると、大学前庭の空に溶け込んでいくような迫力があります。

ほかにも下田の作品は、釧路市立美術館ロビーに「寄生の自由性」が設置されています。

フィリップ・キング「山頂」1995年
<釧路大規模運動公園内>

1934 年チュニジア生まれの彫刻家。ヘンリー ・ ムーアの助手として働いた後独立し、鋼板等を用いた独自の立体造形作品を各地に設置しました。
銘板に刻まれた作家の言葉には、
「The stepped cube-cloud struggles rising while fingers strike ascending keys.
懸命に登る四角い雲の階段、指は鍵盤で上昇音を叩きつつ。」
こぶしのような形の金属隗は、角の1点で地面から支えられ、しっかりとした重量感を保ちながら雲をイメージした軽やかさを生み出しています。花壇に囲まれた作品は、季節の花とともに軽やかな音階を響かせています。

淀井敏夫「飛翔」1987年
<釧路大規模運動公園内>

「翼を大きく広げ、空を自由に飛び交う鳥の美しさと、鳥たちがもつ生命の不思議さにひかれ、私はこれまで丹頂鶴や鴎など、鳥をテーマにいくつかの作品をつくってきました。」

そう語った淀井の作品の中でも、飛翔は最も大きなものの一つ。群舞するタンチョウが約7メートルもの大きさで躍動的に表現され、4本の柱によって10メートル上空に軽やかに持ち上げられています。

淀井は通常粘土で作る原形を、石膏で作る独自の制作方法をとることが多かったようです。石膏は速乾性があり、造形には不自由な素材。しかし淀井は、その特徴である流動性と速乾性を生かし、確かな骨格と力強い肌合いを持った、伸びやかで躍動的な作風を生み出しました。

荒々しくも力強い羽を一杯に伸ばし、躍動するタンチョウ。釧路湿原を抱える街・釧路を象徴するモニュメントの一つといえるでしょう。

床ヌプリ「国民の歌『若い日本』音楽碑」1964年
<釧路市民文化会館前>

1962(昭和37)年、翌々年の東京オリンピック開催を記念し、「私達の生まれ育った日本を愛するために、だれもが口ずさめる、文字通り、国民の歌をつくろう」との呼び掛けに、全国から2万件以上の作品が寄せられました。その中から根室市出身の飯田三郎が作曲をてがけた「若い日本」が国民審査で代表に選ばれ、テレビ、ラジオ等を通じて広く親しまれました。

1964(昭和39)年、この曲を後世に残そうと歌詞が刻まれた記念碑建立が計画され、全体のデザインを阿寒湖畔在住の彫刻家、床ヌプリが手掛けました。ユーカラ模様をイメージしたフォルムは「人間の団結力を表現した」と床は語っています。

当初は幣舞公園付近に設置されていたが、その後釧路市民文化会館前庭に移されました。

床ヌプリ「神々の国へ」1980年
<釧路市民文化会館内>

アイヌのユーカラの世界では、人間の住むコタンを守護し、人と神を仲介するフクロウ神が住むといいます。人々は願いを伝えるため、神に手紙を出します。その手紙はフクロウ神の遣いによって、神々へと届けられるのです。

この神話をベースに制作されたのが床ヌブリ作による巨大レリーフ「神々の国へ」。レリーフは3つの巨大な板に分かれており、それぞれ240キロもあります。カツラの木をつなぎ合わせた分厚い合板は、神話の世界を表現するに足る十分な重量感を持っています。

床ヌブリは身長をはるかに超える巨大な板を前に、一心にノミを振るいました。

左部にフクロウ神を配し、中央に神に遣わされた鹿に乗る女の子、右部にその少女を迎える太陽神を配し、男性的なノミ跡と女性的な木肌の滑らかさを組み合わせ、表情豊かなダイナミックな作風に仕上げました。風を帯びたような動きのある構図と、それぞれの神々の荘厳な表情が、ユーカラの持つ幻想的な世界観を余すところなく伝えています。

本作は釧路市民文化会館開館の翌年1980(昭和55)年に有志市民により寄贈、設置されました。

佐藤忠良「鶴」1980年
<釧路市民文化会館内

北海道出身の佐藤忠良は端正な女性像を数多く制作し、道内外にブロンズ像が設置されています。釧路市内にも幣舞橋の橋脚上に「四季の像 夏」が設置され、市民に人気の高い作家の一人です。

その佐藤の制作活動の中でも異色を放つレリーフの大作が、釧路市民文化会館ロビーに設置されています。3つのパーツからなる「鶴」の群像です。

以前は市内のホテルロビーに展示されていましたが「稀有な作品を市民に見ていただきたい」と市へ寄贈、現在の場所に設置されました。移設時に文化会館の天井高を生かし、間隔を広くとって配置された像は幅7メートルにもなります。

それぞれのパーツも2メートルもある大作ですが、細部を見ると羽の一枚一枚まで精緻に制作され、首や足の動きもそれぞれ細かに設定されています。

地上で群れを成す8羽の鶴から2羽が羽を広げて駆け出し、さらに1羽が大空へと飛翔する。鶴が飛び立つプロセスを追った3つの像は、群れから雄飛し、広大な空へと旅立つ独り立ちの物語でもあるでしょう。鶴が集う道東の街から世界へと勇躍する、若者たちへのメッセージが託されているかのようです。

本郷新「朔北の母子像」1962年
<釧路市立博物館前>

釧路市内には本郷新が制作した像が「石川啄木像」「道東の四季の像 冬」などを含め4体あります。その中でも本作「朔北の母子像」は2人の人物を複雑な姿勢で組み合わせ、2.3メートルのサイズにまとめあげた大作です。

「若い生命とこれを護りつづける母の姿を一つの魂として造形した」と作者が語った言葉通り、手足をくねらせもたれる子どもを、母は両足を踏ん張りしっかりと支えて抱え込み、あたかも2人は一体となっているかのようです。北の大地に生きる2人は、厳しい風雪を正面から受け止めて、なおしっかりと立つ量感と力感を十分に持っています。

当初この作品はセメントで作られましたが、20年以上の歳月によって徐々に風化が進みました。そこで釧路市はブロンズに作り変えることを決め、同時にそれまで3メートル以上あった台座を5分の1に引き下げ、鑑賞に適した高さに再設置しました。

「この丘に建つことは、この像が待ち構えている運命だ」生前にそう語っていたという作者の意志を受け継ぎ、像は以前と同じ春採湖を望む高台に設置され、市民が集う憩いの空間を見守っています。

舟越保武「杏」1992年
<釧路市生涯学習センター2F>

1992(平成4)年、北海道新聞創立50周年を機に、生涯学習センター開館を記念して設置されました。タイトルの「杏」は両手に握りこまれた果物。果実は優しげに握りこまれ、すっくと立つ女性像からは、若い女性のみずみずしい命の輝きと、意志力を感じさせます。
静岡県立美術館、世田谷美術館屋外などにも同作品が設置されています。

中江紀洋「ベイ・ゲイト」1992年
<釧路市生涯学習センター前>

1992(平成4)年生涯学習センターのオープンを記念して、釧路市在住の立体造形家・中江紀洋が制作しました。
「生涯学習センターは道東に文化の灯をともし続ける灯台のイメージがある。また、文化、学習のゲートのイメージも重ね合わせてデザインした。」と中江は語っています。
高さ7メートルのステンレス製で、連絡高架上に建てられた作品は、釧路川周辺からも望むことができ、生涯学習センターとともに街のランドマークとなっています。

米坂ヒデノリ「凍原」1965年
<釧路市民文化会館前庭>

釧路市民文化会館前にブロンズ像として設置され、釧路市民にとって最も身近な彫刻の一つ「凍原」。マントで身を固めた女性像は、同じく釧路出身の作家、原田康子の小説「挽歌」を下敷きにしています。

物語の鍵を握る登場人物・桂木氏夫人が、湿原の中で遺体となって発見される場面。その彼女が昇天する姿をイメージして彫ったといいます。原型は木彫作品です。

この作品に始まる米坂ヒデノリの30歳代の作品は、それまでの作品にみられる力感、躍動感は次第に息を潜め、表情が固く引き締まり、マントが全身をしっかりと覆うようになっていきます。

肩からしっかりと羽織った長いマントは、複雑な人間関係と、移ろいゆく時代背景の中で、身もだえながらも、必死に信じるところを守りとおそうとした夫人の心情が、形となっているのかもしれません。身を固くしつつ、全てに沈黙して空を仰ぐ表情は、敬虔な祈りを感じさせます。

田畑一作「なかよし」1957年
<釧路市立中央小学校入口>

パブリックアートにはその町の歴史が関わっていることが多くあります。優れた功績を残した偉人や様々な事件など、忘れてはいけない町の出来事を記録するのもアートの仕事の一つといえるでしょう。

本作「なかよし」の像は、昭和31年に釧路市で起きた交通事故を慰霊するために設置されました。6月29日午後4時頃、市内で起きた火災に向かうため急いでいた消防車が、道で消防車を見ようと待っていた児童の列に突っ込み、7人がなくなった大事故。散乱する長靴とうめき声を上げる子どもたちを前に人々は声を失ったといいます。

この事故で亡くなった子どもたちが、せめて天国で楽しく暮らせるようにとの願いが、この作品の設置につながりました。悲惨な印象を避け、3人の子どもたちが輪を作って遊ぶ姿に「永遠に生きよ」という願いが込められているといいます。

はからずもこの作品は後に平和の尊さを訴え世界連邦運動に賛同を表する「世界連邦都市宣言」の記念の像として、東京の代々木公園にも設置されました。釧路の子どもたちが世界平和を願う象徴として、手に手を取り合っています。

長谷川工「タンチョウレリーフ像」 昭和55年制作
<釧路駅小公園>

釧路駅の改札を抜け、駅舎を背に右手に歩みを進めると、大通りに面した小さな噴水公園を見つけることができます。噴水を囲む壁には丹頂のブロンズレリーフが配され、ベンチに腰掛けひととき旅の疲れを癒す憩いの場となっています。

このタンチョウレリーフ像は、市内の女性に制作を依頼された、当時の教育大学釧路校教授・長谷川工によって設置されました。向って右側につがいの求愛の姿が描かれ、左側には子育てをしている様子、そして親子で旅立っていく、3羽の鶴の家族の成長を追ったストーリー仕立てとなっています。

依頼者の女性は一人息子を戦争で失い、遺族年金で生活していましたが、「このお金は息子の命の代償」と感じて世のために役立てたいと考え、レリーフの制作を思い立ったといいます。像の横には銅板に「年老いた母が戦死した愛息への思慕の情を丹頂鶴の愛に託して作られたものです」と記され、その由来を伝えています。

地域によって守られ育まれてきた道東のシンボル・丹頂。その家族の姿は、息子を想い続けた母の深い愛情を象っているのです。